2014/08/23
8月26日から「石谷家文書」の一部を展示替します!!
現在、公開中の
・長宗我部元親書状(斎藤利三宛)
・長宗我部元親書状(石谷頼辰宛)
は、8月24日(日)までの公開となります。お見逃しなく!
8月26日からは、
①斎藤利三書状(空然宛)、②稲葉一鉄書状(石谷頼辰宛)
の原本を公開します。
それぞれ、もちろん初公開!
どんな内容の書状なのか、少しご紹介します!
①斎藤利三書状(空然宛)
すでに四国の各方面に進出していた長宗我部元親に対し、
織田信長は、伊予(現、愛媛県)、讃岐(現、香川県)を返納
させ、土佐(現、高知県)と阿波(現、徳島県)の南半分を与
えるという朱印状を出します。
しかし、それに元親は不満を持っており、明智光秀の重臣・
斎藤利三は、自分の実兄で、元親の義兄でもある石谷頼辰
を使者として土佐に派遣し説得しようとします。本書状は、
その際に頼辰が、元親の義父にもあたる空然(石谷光政)に
持参したものです。
書状に書かれた文字の乱れ具合からは、斎藤利三が取り
乱していた様子が伝わってきます。
②稲葉一鉄書状(石谷頼辰宛)
稲葉一鉄は、土岐氏、斎藤道三から斎藤氏三代、織田信長
豊臣秀吉に仕えた美濃国の戦国武将。一鉄は、「頑固一徹」
の語源になったとされ、とても意思の強い人物として有名で
す。
一時、稲葉一鉄に仕えていた斎藤利三は、後に明智家に転じ
明智光秀の重臣となります。本能寺の変の直前には、利三の帰
属をめぐって稲葉一鉄が織田信長に申し入れをしており、斎藤
家と稲葉家の関係は悪化していました。
このような状況の中で、本書状は、六月二日に本能寺の変が
起きた後、罪人として処刑された斎藤利三の家族を稲葉一鉄が
探していたことがわかります。罪人の親族、一族は通常、同罪
扱いにされることが多く、利三の家族をかくまうことは、稲葉
一鉄の身にも危険が及ぶ可能性がある中、一鉄の姪が斎藤
利三の夫人だったことから、利三亡き後、遺族を必死に守って
いこうとしている一鉄の男らしさが伺える書状です。
どちらの書状も、戦国武将の生々しい感情や想いが詰まった
やりとりが記されており、当時の生々しい状況が伝わってきま
す。ぜひ、会場で原本をご覧いただきたいと思います!