戦国時代、自らの命を賭して戦った戦国武将。武士の魂といわれる刀剣、刀装具、甲冑には、細部にわたり、武士としての最高のおしゃれが施されていました。“乱世を生きた、男たちの美学(ダンディズム)”。その華麗なるデザインは、江戸時代に華開き、いまもなお、我々の心を魅了し続けています。
本展では、林原美術館の所蔵品を中心に、刀剣・刀装具・鉄砲・火事装束、そして岡山藩ゆかりの7領もの甲冑、さらには初公開となる資料など、およそ70点を一堂に展示。
武士の晴れ姿、男の美学に迫ります!
「本能寺の変」といえば、織田信長が明智光秀に討たれた日本史上で最も有名な謀反ですが、光秀の動機は、これまで、謎とされてきました。その謎に迫る新たな史料が林原美術館所蔵の古文書の中から発見されました。光秀の謀反の動機が、なんと四国にあったとする説が有力になりそうです!
新たに発見された文書(もんじょ)は、足利将軍家の側近だった石谷家(いしがいけ)にまつわるものです。手紙は、本能寺の変(1582年6月2日)が起こる直前の5月21日に四国の武将・長宗我部元親から明智光秀の重臣・斎藤利三(さいとうとしみつ)に宛てた書状で、日付や、利三の名前、元親のサインである花押が読み取れ、本能寺の変の直前の状況を知る重要な史料であることわかりました。
林原美術館には、国宝3点を含む様々な文化財が収められており、今回の史料は、戦後の昭和20年~昭和36年ごろまでに収集したと考えられる林原一郎コレクションの中から見つかりました。
明智光秀が本能寺の変を起こした動機については
恨みや野望を持ったという説、黒幕がいたという説など様々な説がありますが、定説はありませんでした。
その一つに、四国統一を目指した長宗我部元親との関連を重視する「四国説」があります。長宗我部元親は、嫡男の名前を信長から拝領するなど、友好関係を築いていました。しかし天正9年(1581年)の後半頃、信長が長宗我部氏に対する方針を転換します。信長は「四国は切りとり次第」という許可を撤回し、土佐一国と阿波半国の領有のみを認めると通達したのです。元親はこれに反発しました。そして、翌年の6月3日に信長は四国征伐の派兵を計画します。本能寺の変は、まさにこの前日に起きました。
石谷家は、長宗我部元親に娘を嫁がせています。実は、明智光秀の重臣で本能寺の変を企てたとも言われる斎藤利三の実兄が石谷頼辰で、石谷家、斎藤家、長宗我部家は血縁関係にありました。石谷家文書には光秀の名前も見られます。今回、発見された史料からは、四国征伐前の緊迫した様子と、信長と元親の間で板挟みになる明智光秀、斎藤利三の様子をうかがうことができます。
これまでも、元親、明智光秀、斎藤利三の関係は知られていましたが、両陣営がこのようなやりとりをしていたことを示す一次史料はありませんでした。
今回の史料の発見によって、本能寺の変の一因が、信長の四国征伐にあったとする「四国説」が、今までよりも有力になってくる可能性があります。
今回の特別展のタイトルである「武士のダンディズム」を象徴する、刀剣・甲冑・鞍(くら)・鐙(あぶみ)など、武家の歴史・格式を示すために備えた表道具に加え、纏(まとい)・吹流しなどの戦場で使用していた道具類も展示します。実質的な初代岡山藩主・池田光政所用の甲冑など、岡山が誇る武士を象徴する一級品の数々はご覧ください。
第1幕と同様、武家の表道具や戦陣で使用した道具類を、さらに詳細に展示します。
岡山藩主池田家ゆかりの甲冑6領をはじめ、迫力ある兜や前立て、鉄砲、馬具、刀装具、そして日本刀の代名詞ともいえる備前刀などを紹介します。中でも、当時の日本の高い工芸技術を駆使した華やかで精巧な甲冑や個性豊かな兜からは、武士の好みや美学が伝わってきます。
“戦いのいでたち”の、華麗なるデザインをご堪能ください。
武家は、先祖の肖像画を描いて顕彰したり、先祖が主君からもらった書状を掛け軸にして後世に伝えるなど、御家の由緒を非常に大切にしました。岡山藩主池田家の由緒を伝える織田信長、豊臣秀吉、徳川家康たちの古文書や、初公開となる「本能寺の変」に関連する文書を含む「石谷家文書」などをご覧いただきます。
戦陣で着用し、個人を象徴する色彩や模様が用いられ、戦場を彩った胴服や陣羽織、江戸時代の武士の正装である半裃、そして「火事と喧嘩は江戸の花」と言われた江戸において、大名が火消しの際に着用した火事装束など、武家が時に応じて着用したさまざまな装束の華やかなデザインをお楽しみください。