岡山市出身でフランスのパリを拠点に活躍する画家、赤木曠児郎さんから月に1回程度「パリ通信」を送っていただいています。

モンマルトル通り

【近況】

ルーブル美術館地下入口、カルーセル・デュ・ルーブル会場で開かれた、1890年創設サロン・ナショナル・デ・ボザール(国民美術家協会)展で、50号の裸婦作品が2002年度ピュビス・ド・シャバンヌ賞に選ばれました。
同賞は、同展役員中より一人選ばれ、明年度の会場で個展コーナーが開かれる伝統で、日本人の受賞は初めてです。
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ご要望に応え再版、装い新たに「新書版・私のファッション屋時代」が出来ました。
900円+送料
株式会社 第一出版センター(担当・大崎さん)
TEL(03)3235-3051
FAX(03)3235-0158
または、展覧会場でのみ発売
 

「パリの町はどこの石?」

 二十世紀後半に入っての現代の建物は、コンクリートやガラス張りで誰も不思議に思わないが、その前は白っぽいベージュ色の石を積み重ねて造られたのがパリの建物だった。十九世紀、世界の都としてのパリの主要大通りの町並みは、統一されたデザインと計画で造られているから美しい。
 だから、よく聞かれる質問に「この石は、どこから来た石ですか?」と質問されることがある。
 石は高価なものだった。だからもっと前の十六・十七世紀の頃は、節約して石と煉瓦を組み合わせて造るデザインが流行ったこともある。それでもお金がかかるから、貴族屋敷しか作れなかった。もっと前、中世の普通は樫の木の柱を間を置いて縦に並べ、間に石や煉瓦の破片を詰めて壁にした。教会堂やパレ(宮殿)と名前のつくものだけが、石だけの塊を積み重ねていた。
 石や木が比較的手近にあったから出来たので、パリから北の方ではもう石が得られないから、泥を焼いて煉瓦にして、積み重ねて町を造っていったのだった。ベルギー、オランダ、英国の町々で、これはまた錆び色の重々しい独特の雰囲気が生まれている。
 イタリアでは大理石が多かったので、豪華な建物が普通にあるが、それじゃパリの石は何処から運ばれて来たものか。エジプトのピラミッドみたいに沢山の奴隷に大蒜(ニンニク)を沢山食べさせて、エンヤ・エンヤと遠方から運んできたのでは費用がとても大変なことになる。手近にパリの地下から掘り出したのである。それで上に家を建ててしまった。

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赤木 曠児郎 (2003年2月22日)
赤木曠児郎氏 略歴
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