アナウンサーの防災日記
災害報道を通して感じたこと
千神 彩花 アナウンサー
防災士の資格を取得されたと伺いました。
はい。防災の知識をつけるために2023年4月に取得しました。 私が入社2年目の7月に、西日本豪雨が起こったんです。 社内で災害の情報収集をする中で、「もっと肌で感じることをしたい」、「もっと困っている人の役に立ちたい」という気持ちが高まり、現場で取材をする上でも、防災士の資格をいつか取りたいと思っていました。
実際に資格の勉強を通して感じたことはありますか?
「地震ってなぜ起こるのか?」「台風はどういった風の強さなのか?」など、自然について学び直すきっかけとなりました。 実際に地震の構造を知っていれば、避難誘導に役立てられる可能性もあります。 また、1923年の関東大震災では情報が錯綜していたため、社会に混乱が起こったと言われています。 当時アメリカではラジオはありましたが、日本にはラジオはなく、教訓を活かすためにラジオ開局を早めるきっかけとなったそうです。 ラジオは正確な情報を伝えることのほか、普段聞いているパーソナリティの声が流れると人々の安心につながると言われています。 私自身もし災害時に話すことがあれば、ラジオを通して被災された方の心に寄り添える立場でありたいと思っています。
防災士の資格をどんなふうに役立てたいですか?
防災士の資格取得には救命救急講習を受ける必要があるんです。 私自身、講習を通して初期処置を学びました。今後は機会があれば防災のコーナーで話すなど、学んできたことを伝えていきたいです。
防災という観点で伝えたいことありますか?
まず身近なところで、防災グッズの見直しです。人間は一日に3リットルの水が必要とされています。 3リットルというと、かなりの量ですよね。また、防災グッズの保管場所です。 もし就寝時に災害が起こった場合、寝ている場所から防災グッズが離れていると、たどり着くのが困難なことが想定されます。 そのためベッドの下など手の届く範囲に保管していくのが望ましいです。 そして防災グッズは1箇所だけでなく、自宅の複数の場所に保管しておくと、建物の倒壊時に役立ちます。
今後の夢や希望を教えてください。
アナウンサーという言葉を伝える仕事である以上、どうすれば伝わりやすいかというのを意識しています。 資格取得によって伝えられる幅が広がると思います。今回、防災士資格の勉強を通して幅広い知識を習得できました。 今後は気象に関しても学んでいきたいです。 そして、せっかく防災士を取得したので、災害時には声を出して人に呼びかけをおこなうなど、率先して避難指示を出す人になりたいです。 少し大げさな言い方かもしれませんが、自分だけなく人の命も救える立場になりたいと思っています。
千神 彩花
広島県福山市出身 2017年入社。
(岡山県笠岡市に住んでいたことも)
おかやまマラソンを完走したことから、ランニングが趣味に。
これまでにホノルルマラソン、名古屋ウィメンズマラソンに出場しました。
週末は旭川の河川敷を走っています。
国司 憲一郎 アナウンサー
2018年7月豪雨の様子を教えてください。
週の最初からずっと雨が降り続いていました。僕も岡山に来て20数年経っていますが、こんなに雨が降り続いているのは経験なく、これはちょっと何かあるな、と思っていたら、川が増水し、堤防や土手が決壊したという情報が入りました。 その後7日土曜日の夕方、旭川からリポートしましたが雨は上がっていました。「この後も警戒して下さい」ということで放送を終えましたが、正直そこまで大きなことになるとは思っていませんでした。しかしその頃真備は大変な浸水被害になり、岡山市東区なども広範囲にわたって被害が及んでいました。 この時感じたのは被害があった場所には、中継車などメディアが行くのですが、災害というのは映像に映っていない被害現場というのが数多くあるということでした。そういったものも伝える必要性があると強く思いました。
被災現場の様子を伝える中、ラジオへの見方の変化はありましたか?
西日本豪雨の前、東日本大震災の頃もそうでしたが、細やかな情報を常時伝えられるのは、テレビではなくてラジオだということです。停電時であっても電池があれば情報を取ることが出来ます。またラジオは大変機動力があります。テレビの場合はどうしても人手が必要ですが、ラジオは必要最低限の人数で動くことが出来ますし、リスナーの声を届けられる放送尺がテレビよりも多いです。「救援物資はここで手に入れることが出来ます」など細やかな情報を届けられるのではないかと思っています。
災害時、普段耳にするアナウンサーの声がラジオから流れると安心したという声もありました。
ありがたいことです。ただ、取材を続ける中、被災された方から「そんな時間があったら水の一本でも配ったらどうですか?」と言われたことがあるんです。我々はボランティアをするにしても中途半端な立場になりますし、中継するにしても場所を取りますから、邪魔な存在なのかなと思いました。そこで僕は一人でも多くの住民の方にお話をお伺いしようと決めたんです。ありがたいことに、日々色々な形で接しているからこそコミュニケーションが取れました。普段からの積み重ねが大切だと感じました。
災害時にメディアとして伝える中、心がけていたのはどんなことですか?
目の前のことをそのまま、ありのまま伝えるということです。しかも暗いトーンにならずに。阪神大震災の時もそうでしたが、地震の報道をするのではなく、楽しい音楽やトークが実は被災者の方には喜ばれたということを聞いたこともあります。「寄り添う」という言葉は大変難しいと思いますが、リポートするときははっきりとしっかりと、明るいトーンで伝える。そして内容は出来るだけ前向きになれる言葉、情報を選ぶということです。
最後に今後チャレンジしたいことはありますか?
深夜、早朝の番組に取り組み、もっとラジオを盛り上げていきたいです。若い人はもちろん、年配の方でラジオから遠ざかっていた人にもう一度戻って来てもらう。そうすることで、地域の防災組織の新たなコミュニケーションの輪ができる可能性もあります。
国司 憲一郎
RSK山陽放送 アナウンス部長
大阪府出身 1995年入社。
アナウンス部、報道部などを経て現職。
モットーは萩本欽一さんの言葉に習った「いつも笑い」。