シンポジウムの模様
左:渾大防益三郎((公財)竜王会館蔵)
右:大原孝四郎((公財)有隣会蔵)
下村紡績所(岡山県記録資料館蔵)
産業遺産学会顧問
玉川 寛治 氏
倉敷市歴史資料整備室室長
山本 太郎 氏
旧倉敷工場の粗紡部(倉敷紡績蔵)
シンポジウムの模様
コロナ対策
第4回シンポジウム実施報告
公益財団法人山陽放送学術文化・スポーツ振興財団は2月18日(木)、国造りの根幹をなす「殖産」をテーマにしたシリーズ・シンポジウム「近代岡山の偉人伝 殖産に挑んだ人々」を、岡山市北区の能楽堂ホール「tenjin9」で開いた。
第4回となる今回は「時代を紡いだ先哲」と題し、綿紡績業の先駆けとして時代を切り拓いた2人、日本初の民間紡績会社・下村紡績所を創設した
岡山県のガイドラインよりも厳しいコロナ対策をし、ソーシャルディスタンスを保ちながらの開催となった。
日本の近代産業の中心的役割は綿紡績業が担ってきた。
児島郡下村(現倉敷市児島)の渾大防益三郎は1880(明治13)年、明治政府がイギリスから輸入したミュール精紡機をいち早く買い入れ、日本初の民間紡績会社・下村紡績所を創設した。
その8年後、倉敷村(現倉敷市)の大地主大原孝四郎が最新で高性能のリング精紡機を導入して倉敷紡績所を創設。クラボウ、クラレへと発展し「繊維のまち倉敷」の礎を創ることになる。
シンポジウムではまず、繊維産業史研究の第一人者で、産業遺産学会顧問の玉川寛治さんが下村紡績所の創設と会社解散に至るまでの経緯を解説した。
この中で玉川さんは「益三郎は地元特産の綿花を活かせる綿紡績にいち早く取り組み、大阪に出張所を設けるなどして堅実な経営を続ける一方、紡績連合会を組織して新しい産業の経営基盤の強化・協力体制づくりに力を尽くした。
そして金融、製錬、養蚕、陶磁器の会社のほか、織機や染色を学ぶ実業補習学校の設立、孤児院への支援などにも積極的に取り組み、また水産試験場や児島養貝社を興し、瀬戸内海における養殖業の先覚者となった優れた人物だった」と、その手腕と人間性を高く評価した。
下村紡績は後に、益三郎が作った鴻村銀行の融資焦げ付きにより解散に追い込まれるが、玉川さんは「益三郎は自社の発展よりも業界や地域全体の発展を企図していた。つまり、地域で様々な事業を興し、地域の人々の暮らしが豊かになるようにと、児島地区で産業革命を起こそうとしていたとさえ思える」と結んだ。
続いて、倉敷市歴史資料整備室の山本太郎室長が倉敷紡績所創設の時代背景と経緯を説明した。
倉敷紡績所は大地主であった大原孝四郎が若者たちの熱心な設立運動を受けて創設するが、山本室長は「岡山県内には先発の紡績会社が3社(下村、玉島、岡山)もあったため、岡山県は経営面を危惧して、なかなか設立許可を出さなかった。
様々な運動の結果、孝四郎が資金不足を補うことによりやっと許可が出て、当初予定の半分の規模でスタートした」と産みの苦しみを明かした。
その後、社長が孝四郎から孫三郎、總一郎へと引き継がれ、大原家は工業(紡績)ばかりでなく、農業、医療、文化、芸術などの振興にも大きな功績を残していくが、山本室長は「孝四郎は当初、名望家的側面があったが、しだいに産業資本家として主導的役割を果たすようになり、学校を創り、奨学制度を設けるなどして学問を尊重し教育を重視して地域の質的底上げを図る一方、新しい事業にも着手するなど、社会への富の還元・社会貢献を積極的に行って人々とともに歩んだ」と、その事績を高く評価した。
なお、新型コロナ感染症への対策のためシンポジウムへの参加者数を制限をせざるを得なかったため、今回もYouTubeでの動画配信を行った。
左:野﨑武左衛門肖像
((公財)竜王会館蔵)
右:野崎浜塩田(明治時代後期)
((公財)竜王会館蔵)
次回の殖産シンポジウムは令和3年4月22日(木)。
「内海に白き輝きを見た男 野﨑武左衛門」と題し、日本の塩田王と称される野﨑武左衛門の生涯や事績を取り上げるほか、特別調査チームによる2年間の野﨑家業績史料調査の解析結果も明らかにされる。