会場の模様
新型コロナ対策
造形作家
山本 よしふみ 氏
国立科学博物館産業技術史資料情報センター長
鈴木 一義 氏
シンポジウムの模様
山羽の蒸気自動車のレプリカ
会場ロビーの模様
第1回シンポジウム実施報告
公益財団法人山陽放送学術文化・スポーツ振興財団は8月20日(木)、国造りの根幹をなす「殖産」をテーマにした「シリーズ・シンポジウム『近代岡山の偉人伝 殖産に挑んだ人々』」を能楽堂ホールtenjin9でスタートさせた。初回は「明治の才覚たち」。日本初のテーマパークを岡山市に開園した片山儀太郎とこちらも日本で初めて自動車を開発製作した山羽虎夫を取り上げた。
岡山県のガイドラインに準じた新型コロナ対策をし、ソーシャルディスタンスを保ちながらの開催となった。
岡山亜公園は木材業で財をなした片山儀太郎が1892(明治25)年、RSKイノベイティブ・メディアセンターが建った天神町9番のあの場所に、日本で初めてのテーマパークとして開園した。高さ33m、七層の高楼「集成閣」を中心に、劇場や旅館、飲食店や遊技場を配する大型複合娯楽施設。瀬戸内海が見渡せる景観、山陽鉄道の開通も相まって京阪神からも多くの来園者が押し寄せた。しかし亜公園は13年の短命に終わった。
シンポジウムでは、天神町界隈の歴史を研究している造形作家の山本よしふみさんが菅原道真をまつる亜公園の壮大な構想を解説した後、「片山は、江戸時代の大店に代わって台頭してきた鉄道業や旅館業らの若い事業家などとの、いわば協調事業として亜公園を作った」と、亜公園が人を呼び込める地域起こし事業のひとつの形であったことを提示した。
日本初の蒸気自動車は、岡山市表町で電機機器の工場を営んでいた山羽虎夫がバス事業を計画した岡山市の資産家から依頼を受けて1904(明治37)年に完成させた。実は山羽は、自動車を見たことさえなかった。伝手を頼って必死で勉強しその製作に挑んだのだが、溶接もない時代である。数々の困難を克服しての偉業であった。
シンポジウムで国立科学博物館産業技術史資料情報センター長の鈴木一義さんは「当初、自動車製作を請負った大阪市の中根鉄工所が蒸気機関などの研究を相当進めている。取引のあった山羽がそれを引き継ぐ形で竪型蒸気機関を工夫・改修し、また蒸気の出力と自走能力、ボディーの調整なども手掛け、(『これなら走れる』という)絶妙な大きさとバランスで仕上げたはず」と解き明かした。そして「山羽は東京や横須賀で最新の技術を身に付けていた。日本全体の工業力を世界に示すという意味でも非常に価値がある」と高く評価した。
一方会場ロビーには、高校生が製作した山羽の蒸気自動車のレプリカが展示され、参加者の話題をさらった。
レプリカを作ったのは岡山商科大学付属高校自動車科の生徒たち。全長3.0m、全幅1.2mと、山羽車の3分の2ほどのサイズ。竪型2気筒の蒸気エンジンを搭載したバスタイプで、フレームとボディーは本物そっくりにヒノキ(山羽車はケヤキ)を使い、車輪部ではゴム製のタイヤを新たに作った。
レプリカの製作に取り掛かったのは2年前。山羽車は設計図さえ残されていないため、生徒らは愛知県にあるトヨタ博物館の模型や残された写真などからそのサイズを割り出し、設計図を引くことからスタートした。組立を始めてみると、ボディーの材料がない、羽目板がない、リムがない、塗料がない、の無いない尽くし。生徒らは苦労しながらやっと展示にまでこぎつけたのだが、当時、山羽が悪戦苦闘した部分では同じように大変な苦労を強いられたという。 実はこの車は、牽引用の車両として仕上げられている。公道を自走するためには道路交通法にそって様々な装備が必要で、そうなると山羽車の原型を留めなくなるためだ。 シンポジウムで講師を勤めた鈴木一義氏も「よくできていて驚いている。白紙状態からチャレンジすることが科学技術を更に進歩させる」と絶賛した。