近代岡山の偉人伝 殖産に挑んだ人々

会場は無観客
ライブ配信用の機材とスタッフのみ

長野宇平治(日本銀行金融研究所蔵)

東京大学名誉教授
藤森 照信 氏

日本銀行旧岡山支店(日本銀行金融研究所蔵)

大倉精神文化研究所本館(同所提供)

薬師寺主計(上田恭嗣氏蔵)

ノートルダム清心女子大学名誉教授
上田 恭嗣 氏

中国銀行旧本店(上田恭嗣氏蔵)

中国銀行旧本店(上田恭嗣氏蔵)

シンポジウムの模様

第10回シンポジウム実施報告

「近代制度を育てた人々」

公益財団法人山陽放送学術文化・スポーツ振興財団は2月17日(木)、国造りの根幹をなす「殖産」をテーマにしたシリーズ・シンポジウム「近代岡山の偉人伝 殖産に挑んだ人々」の第10回「岡山の街をデザインした男たち」を開催。 産業基盤を支える近代建築を全国で数多く設計し、西洋に肩を並べようとする街づくりを先導した建築家2人、長野宇平治と薬師寺主計を取り上げた。

今回のシンポジウムは、新型コロナ感染症が広がりを見せているため、聴講者を会場に入れない無観客での開催とし、演者一人も東京からリモートで講演するなど「コロナ対応」の開催とした。その模様はYouTubeでライブ配信した。

出 演
講演「互いの銀行を設計した長野宇平治」
東京大学名誉教授 藤森 照信 氏
講演「互いの銀行を設計した薬師寺主計」
ノートルダム清心女子大学名誉教授 上田 恭嗣 氏
コーディネーター
就実大学特任教授 小西 伸彦 氏

和洋折衷の奈良県庁を設計し、高い評価を受けて建築界にデビューした長野宇平治。1897(明治30)年日本銀行技師となり、辰野金吾の下で、大阪・京都・小樽などの各支店のほか、ギリシャ建築様式を取り入れた岡山支店(現ルネスホール)や大倉精神文化研究所本館など重厚な古典主義の建築を全国で数多く設計した。
総社市出身の薬師寺主計は当初、陸軍省にはいり、重要な建物の設計を統括した。1926(大正15)年、大原孫三郎に請われて倉敷絹織(現クラレ)の取締役に就任。経営に参画しながら第一合同銀行本店(現中国銀行)や大原美術館本館、倉紡中央病院(現倉敷中央病院)、有隣荘など多くの建築を手がけた。

シンポジウムでは、まず東京大学名誉教授の藤森照信さんが自身が館長を務める東京都江戸博物館からリモートで出演。長野宇平治の建築スタイル、作風について講演した。
長野は東京帝国大学工科大学で西洋建築を学ぶのだが、学生時代からゴシック的な奇抜さや自由さを求めて建物を造ってきた。その流れのなかで、「全体の構成はヨーロッパ的だが屋根や窓には和風様式を取り入れた和洋折衷」という奈良県庁を設計する。次にデザインした関西鉄道愛知停車場は、アメリカの影響を強く受けた派手で華やかなゴシック様式の建物で、長野はゴシック様式で建築家人生のスタートを切った。
「しかし、長野の設計スタイルは間もなく変化する」と藤森さんは明かす。「師である辰野金吾から目をかけられ、辰野の下で日本銀行の各支店を造るからだ。造らされたといってもいい。ただ、ややこしいのは長野が辰野を尊敬し敬愛していること。これが逆に彼を苦しめるのだが、こうして、辰野と長野とのめざすスタイルの違いが顕在化すると同時に、日本建築の方向性をめぐって建築界で論争が起きる。長野は『日本の建築に未来を拓くのはヨーロッパで成熟した古典主義。日本もキチンとした古典主義で進むべきだと主張』し、個人事務所を開設して日本銀行の建設からいったん離れる。そうして時期に、彼の評価を決定づける三井銀行神戸支店を造り、1922年には日本銀行岡山支店、現ルネスホールを完璧な古典主義様式で造った。石造と鉄筋コンクリート造二階建ての堂々とした建物で、正面入り口には4本のエンタシス柱を並べ、柱頭飾りにはギリシャ建築がいちばん華やかな時のコリント様式を採用して格調高い美しさをみせていた」と、彼の成熟を高く評価した。
長野はその後、民間の銀行の外観や壁面装飾で色タイルを張ったり羊をデザインするなど、多少の「遊び」をあしらっていたが、単独の建物としては最後の作品となった大倉精神文化研究所本館では、ギリシャ建築特有の柱を上広がりにし、華やかなデザイン、神話の人を喰う魔物、神社の鏡と鳳凰、日本の伝統美などを表現。まさに、東西文化が溶け合った独特の様式美もつ建造物を創りあげた。藤森さんは「長野は『西洋と日本の近代化との間で自らをどう処すべきかと葛藤しながらも、最後には、自身が辿ってきた思想や伝統、学んだ建築様式すべてを融合できないか』というところに行き着いた」と、建築家長野宇平治の胸の内を推し量った。

続いて、ノートルダム清心女子大学名誉教授の上田恭嗣さんが、岡山の新市街地に薬師寺主計が建てようとした八階建ての壮大な複合ビル計画を例に薬師寺の先見性や発想力、技術力の高さなどについて講演した。
陸軍省を辞した薬師寺は大原孫三郎の下で、これまでの建築様式には当てはまらない自由な発想で建築物を造っていたが、1924年に建設が決まった中国銀行旧本店では、信用と威容を保つという理由から贅沢な単独の建物としていた銀行建築の前例を破り、「耐火耐震の八階建て、実用を主とする構造」にし、銀行は一、二階と地下室のみを使用。二階以上の他の部分は百貨店や貸事務所に利用するなど米国的合理的な利用とし、外観にも無駄な彫刻や装飾はほとんどつけない実用的複合ビルとして設計した。
上田さんは「当時の岡山では、とてつもない高層ビルであり、外観も利用方法もこれまでの銀行建築を脱したまったく新しいスタイルであった。しかし、この計画は陽の目を見なかった。深刻な金融不況の中で、監督官庁の理解と許可が得られず、三階建ての設計に変更せざるを得なくなった。エレベーターや冷房装置も取りやめとなり、当初の計画からみると大幅に後退した」と残念がる。
その一方で上田さんは「旧来からの概念にとらわれない外観に薬師寺の意気込みが窺われるが、さらに玄関や建物内部には随所に世界最先端のアール・デコのデザインが施されるなど、アール・デコ博覧会が世界的な反響を呼ぶ前に、新しい建築デザインとしてこの銀行建築に表現されていた。一貫したデザインコンセプトでアール・デコ様式を表現した建築物は世界的にも数少ないと言われているが、アール・デコ様式による中国銀行本店の存在は、日本における近代建築様式の導入に関しても画期的な位置づけになる建物であった」と薬師寺の設計を高く評価した。
そして上田さんは「薬師寺の設計により、中国銀行本店と日本銀行岡山支店の間に山一證券岡山支店が、また拡幅なった県庁通りの東端には岡山市制40周年を記念した岡山市公会堂が建てられる。さらに中国銀行北側に日本赤十字岡山病院も建てられた。産業基盤を支えるこれらの建物は岡山の東部新市街地を形成し、まさに新しい近代に向かう人々を奮い立たせ、西洋に肩を並べようとする街づくりを先導した」と結んだ。