会場の模様
東海大学教授 ・日本シーボルト協会代表幹事
沓澤 宣賢
シーボルト記念館 館長 織田 毅
西予市文化の里 統括館長 堀内八重
ジャーナリスト 下山 宏昭
第1回シンポジウム実施報告
公益財団法人山陽放送学術文化財団は、岡山日蘭協会とともに4月16日、岡山で学んだ日本初の西洋産科女医・楠本イネをテーマにしたシンポジウム「日本初の女医 おイネの生涯、そして謎」を岡山市北区の山陽新聞社さん太ホールで開いた。会場は大勢の歴史ファンで満席となった。
楠本イネは1827年、長崎にやってきたオランダ商館医・シーボルトとたきとの間に生まれた。シーボルトが国禁を破ったとして追放された後、医学の道を志し苦学力行した。そして18歳のとき、シーボルトの高弟・石井宗謙が開業していた岡山下之町に移り住み、6年8ヶ月西洋産科学と内科の修行に励んだ。その後長崎で開業し、明治維新後は東京に移り宮内省にも出仕するなど波乱の生涯を送った。
基調講演は東海大学教授でシーボルト研究の第一人者・沓澤宣賢さん。「イネは外国人医師も含め多くの医師から臨床医学をも学び、蘭方女医として活躍した。父と娘は離れてはいたが、医学を通じて強い絆で結ばれていた。」と話した。
続いて、沓澤教授の他、シーボルト記念館の織田毅館長、西予市文化の里の堀内八重統括館長をパネリストに、ジャーナリストの下山宏昭さんをコーディネーターにしてパネルディスカッションが行われ、「イネは何事にも果敢に挑んだ非常に優れた医師であり、女性の先駆者であった。」などと、資料に乏しく、これまで謎とされていた部分、イネの実像を浮き彫りにするトークが繰り広げられた。
「シンポジウム岡山蘭学の群像」は、鎖国の中で日本の近代化を牽引したのが、実は岡山の人だったことがあまり知られていないため、公益財団法人山陽放送学術文化財団などがシリーズで開いている。
第2回は日本で初めてのことに次々に挑んだマルチ人間・宇田川榕菴をテーマに、7月30日(木)に開催する。